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義か利かー播磨の場合4?

「秀吉、思い違いをするな」織田信長は、片頬を歪めた。「上月城から引き上げるとしても、お前が尼子の残党を裏切るのではない。奴らがお前を既にして裏切っておるのだ」「と、申しますと・・・」秀吉は唇を尖らせて訊ねた。「憶えておろう。昨年十二月。上月城に山中鹿之助らを入れた時、何といったか」信長は刺すような視線でいった。「この山中鹿之助と申す者、知恵あり勇気あり人望あり。この者達に一城を与え、矢銭兵糧を給するならば、出雲や伯耆に伏したる尼子の遺臣が数多く蜂起し、毛利の勢いを削ぎ、わが方に利するところ大なること間違いありませぬ、と申したであろう」「確かに・・・」秀吉は目を閉じて頷いた。「だから俺は、あの者たちを上月城に入れるのを許し、千貫の銭と二千俵の米を与えた」信長は念を押すように床を叩いた。「しかるに、どこで誰が蜂起したか。毛利の勢いはいかほど削がれたか。みな、鹿之助らの虚言であった。あの者達が上月城に封じ込められたのは、同志の援けがないからだ」秀吉は「確かに」と頷き、次には「さはさりながら」と呟いて涙ぐみ、両手を付いた。「上様、今しばらく、秀吉に、上月城の尼子の者を救う試みをお許し下さいませ」「よかろう」信長は視線を外して応えた。「十日間、今日より十日は許そう。それで成さずば、必ず兵を返して別所攻めに専念、まずは神吉、志方の城から陥せ」「十日でございますか・・・」秀吉は不安げに首を傾げた。「十日でできぬなら一ヵ月でも一年でもできぬ。毛利、宇喜多の陣は強まるばかりじゃ」秀吉には反論もいい訳もなかった。
秀吉は京の屋敷に一泊しただけで翌早朝には旅立ち、三日後の六月二十日には高倉山の陣に戻った。そして翌朝、すぐに軍議を催し上月城救援の総攻撃案を練った。「これが最後の機会。何としても毛利の陣を突破、尼子の主従を連れ出したい」と力説した。しかし、荒木村重も織田信忠も、反応は鈍い。山中鹿之助の顔も志も知らぬ人々である。
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義か利かー播磨の場合ー1

「本行院日海(のちの本因坊算砂)と仙也、朝方より下書院で碁を打っております」小姓頭の森蘭丸がそう告げたのは、天正六年(一五七八)六月十六日。織田信長が京都二条城で朝食を終えた時だ。「日海奴、また何を掴んで来たのやら」信長はそう呟いて立ち上がり、大股で下書院に向かった。その背で森蘭丸が語った。「越後に侵入した武田の軍、春日山の近くで立ち停まっております。上杉景勝公より勝頼公側近の長坂や跡部に賂が出たとの噂がある由。賭け碁師が聞いたとか」「いい噂だ。碁打ちどもに拡めさせよ」信長は下を向いたままで応えた。敵の揉め事は味方の利益、敵将側近の悪評は嬉しい。
信長は下書院に入り、立ったままで碁盤を見下ろした。碁はまだ序盤なのに隅でコウが発生、局面は容易に進まない。「詰まらぬ」二十手ほど立ったままで見ていた信長はそう吐き捨てて、上書院へと向かった。「絵師狩野永徳より、これが届いております」信長が一番高い主座に胡坐をかくのを待って、菅屋九右衛門長頼が長さ三尺(約九0センチ)ほどの巻物を差し出した。
絵師狩野永徳は、普請中の安土城の障壁画を担当する絵師集団の頭であり、日本で最初の巨大絵画流派を創った元祖でもある。「何ぞ、展げてみよ」絵巻物が展げられるのを、信長は食い入るように見つめた。描かれているのは山と谷、そして城と旗幟の群。目下対陣中の播磨上月城の戦場絵図である。
しかもそれはきわめて精巧、距離や傾斜などの地形から植生や泥田の深さまでが色彩によって描き抜かれている。
測量による地形図のなかった戦国時代、地形見取り図が戦場絵図に使われた。だが、大抵は各組の器用な兵が臨機に描くもので間に合わせていた。岡山城で宇喜多直家が見せられたのも、そんな素朴な墨絵である。
ところが織田信長は、狩野永徳に命じて専門の絵師を多数集めさせ、同じ基準で描いた戦国絵図を何十枚と作らせ、各組司令官に配布、進軍経路や攻撃目標に間違いなくした。
狩野永徳の一派が、織田、豊臣の政権で厚遇されたのは、そんな機能もあったからだ。

義か利かー越後の場合7?

「武田勝頼公、快く御同意。越後のことは越後の衆に、景勝殿と景虎殿との話し合いに委ねる。わしはその周旋と場造りに徹する、と申されてござります。その上、勝頼公御妹君の菊姫様をば、殿にお輿入れさせるとのお約束も頂きました」天正六年(一五七八)六月はじめ、儒者の山崎秀仙が復命した。「そうであろう」上杉景勝は短く答え、珍しく片頬を歪めた無口で無表情まこの男としては「会心の笑み」である。
同じ頃、妙高の高原を越えて信濃から越後に入った武田勝頼は、何の抵抗を受けることもなく北進、小出雲原(妙高市新井)に陣を張った。春日山城まで五里(二0キロ弱)の至近距離である。
だが、ここに留まり、景勝、景虎両陣営に、成り立つはずもない調停案を出した。「双方代表を定めて話し合いで領地を決めよ」というだけのことだ。
景勝は直に同意の旨を伝え、太刀と馬と青銅千疋(二五貫)を贈った。もちろん、賂の一万両と東上野の領地は別である。
景虎側も同様の返答と贈り物を出したが、武田が当てにならぬことを悟った失望は大きい
一方、武田と期を合わせて三国峠から越後に入った北条勢は、樺沢城(南魚沼市塩沢)を拠点に景勝側の坂戸城を攻めた
景勝は、「武田勝頼公の御周旋中に違反も著しい」と訴え、武田軍の一部を坂戸城の援けに動かせた。一万両の効き目は鮮やかだ
武田の変心に嫌気の差した北条軍司令官の北条氏照は、動きを止めてしまった。「いよいよ力勝負ぞ」そう宣言した景勝は、六月十一日、自ら軍を率いて景虎の籠る御館を攻めた
戦いは、大場、居多ヶ浜、府内(上越市)と広がり、翌日まで続いたが勝負は付かなかった。
その頃には、越後上杉家にもう一つの、本当の危機が迫っていた。上杉の属領越中に、織田信長の命を受けた佐々長秋らが侵入、陣保長住らと共に上杉領の切り崩しにかかっていたのである

義か利かー越後の場合6

「山崎秀仙先生」上杉景勝は改まった口調でいった「まずは上野の沼田に行かれて藤田信吉とやらに金子を与えて武田の事情を窺い、伝を求めて長坂釣閑斎や跡部大炒助ら、勝頼公の側近たちにも金子を配って口説かれよ
影虎様が越後の国主となられれば、遠からず関東北条家に吸収される。そうすれば武田家は、西と南は織田の勢力に、東と北は北条家の領土に囲われて、御不便であろう。織田と北条が結べば、武田の領には商人も入れず、塩さえ来ないこともあり得る。
それに引き替えこの景勝、勝頼公を師とも兄とも思うておる。いや、未だ独り身故に、勝頼公の義弟になりたい。この願いをお許し頂ければ、結納の件は弾む覚悟、とな」
儒者の山崎秀仙は、常は無口な景勝が、淀みもなく多言を吐くのに圧倒された
それでも儒学者らしく論理を吟味した。「殿の申されること、いちいちもっともです。しかし、景虎公を救わんと兵を起こされた勝頼公の面目はいかがいたしまするか」「それも考えた」景勝はすらりと応えた。「勝頼公は越後に入り、景勝と景虎の手打ちの周旋をなされよ。どうせ成らぬ周旋で時を稼ぎ面目を保って頂ける」「なるほど・・・」山崎秀仙は、ちょっと間を置いて深く頷いた。わが殿の必死の知恵に畏れ入った。「それで、与える金はいかほどで」と訊ねた。「藤田信吉には金百両、長坂釣閑斎と跡部大炒助には各千両、武田勝頼公には一万両と東上野の領地「何と・・・」秀仙はこの金額に仰天した「武田勝頼公もお手元は不如意の筈。長坂と跡部も側近の実力者とはいえ領地は少ない。家来も養うにもみなを納得さすにも金子は要る。この話、素直に入れば必ず乗る」秀仙は三度頷いたが一つ嫌みを吐いた。「人を利で動かすのですなあ」「いや」と景勝は首を振った。「利で購っても、義は義である」

義か利かー越後の場合5?

「武田勝頼公は窮しておられる」景勝は、それを考えた。
信玄の跡を継いだ勝頼は、先代を上回る実績をあげて家中の尊敬を集めたいと焦った老臣たちが何かにつけて「御先代様」を持ち出すのも疎ましかったこのため、就任早々から美濃や三河への遠征を繰り返し、織田方の小城をいくつか陥した。また翌年には、先代信玄も陥せなかった遠江の高天神城を徳川方から奪った
しかし、翌天正三年五月の三河長篠城攻めで躓いた…後詰めに来た織田信長の大軍と設楽ヶ原で合戦鉄砲の集中砲火を浴びて大敗、古参の将兵の多くを失ってしまった
「織田の鉄砲に突進すれば必ず負ける。武田にも、わが上杉にもない仕組みが織田にはある。各組から自在に鉄砲だけを集められるのだ」養父の謙信がそんな批評をしたのを、景勝は憶えている。
「勝頼公の失敗はそのあと…」と景勝は思う。長篠での失点を取り返そうとして、勝頼は激しく動いた。盛んに軍兵を動かして寸土を掠め、巨費を投じて鉄砲を買い集め、先代との違いを示そうとして甲斐の新府に巨城を築いた。このため、兵は度重なる出征に疲労し、将は動員続きに不満募らせ、民は誅求を恨み出している「何よりの問題は財政のはずだ」景勝は、持っている限りの情報でそう判断した。軍事費の増加で支出は増えるが、収入は激減しているに違いない。兵士と馬匹の徴用で農村は人手不足、不作の連続という。甲斐の金山も掘り尽くされたその上、織田、徳川の経済封鎖で商業収益も減っている。「勝頼公は金に飛び付いて来る。窮すれば、義よりも利に走る」そう思い巡らせた景勝は、「山崎秀仙先生・・・」と儒者を呼んだ。「先日、先生の申された北条家の臣、藤田信吉という者、真に武田に詳しいのか」「昨日沼田に飛ばされるまでは、専ら武田との使節を務めておりましたので・・・」儒者の答えに、景勝は大きく頷いた。
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